帳簿といっても広い概念です。
商売をしている以上何らかの記帳はされているものと思われます。手帳、メモ帳などにも、
忘れないように記帳されていると思われます。
すべてを記憶に頼ることは出来ないでしょう。これは本人とっては貴重な記録(記帳)であって、
大切にしているものです。どんなに忙しくても備忘記録はすることと思います。なぜなら、
それを失念してしまえば商売が出来ないからです。そのことは経営者(事業主)は良くわかっています。
また、税務調査においても、これらは貴重であり、重要な資料です。
時には法的にも大切な証拠能力をもつ資料となります。
税務調査官が喜んで見ます。
「帳簿は見ましたが、奥さんのその手書きのノートも見せてください!」。。。と。
手帳で印象的な思い出があります。売上が10億ぐらい、毎期利益が何千万出る企業の社長の話ですが、その社長の手帳というのは、手のひらにのるような小さなもので、金額的には100円もしない代物です。
そこにびっしり数字がかかれています。その数字を見ながら、現状の話をされるが、こちらが作成した試算表の数字と大きな狂いなく数字を言われるので、平生は経理で記帳された帳簿など
見たこともないような社長ですが、「さすが経営者!押さえているところは押さえている!」と感心をしたことがありました。それ故に優良企業で有り続けることが出来るのだと思います。
このように、必要性を感じていることは、法的な強制力がなくてもやるものです。
江戸時代の商人は大福帳というものをつけていました。
当時は、記帳義務というものがあった訳でもありません。
上記に述べてきた備忘的な記録(手帳、メモ書き、大福帳)と経理担当者がつける帳簿(台帳、出納帳、入出金・振替伝票など)とは、いささかニュアンスが違うところがあると思われます。
商人(個人事業所・法人)は記帳義務と保存義務が課せられています。その目的は債権者保護です。
記帳の方法、作られる表(報告目的の決算書)など法的な規則で定められています。そのためには、専門的な知識が必要になります。
すると、経営者は、義務であるから、「仕方ない」となる。故に消極的になる。
義務を果たすことには積極的になれない。
経済的、心理的な負担になる。ほんとは、権利を行使をするためにも必要なのですが。
「必要な記帳」と「義務としての記帳」の差は大きいかも知れません。
例えば、売上(台)帳はどこも記帳しています。それをしておかないと集金出来ません。
集金出来ないと支払も出来なくなります。それでは、商売になりません。
だから、外部の強制力がなくても記帳します。しかし、「我流」です。
我流かもしれませんが、それでも良いのです。自分が解ればということですから。
これが「必要な記帳」です。
いっぽう,「義務としての記帳」となると一定の法則、ル-ル等に乗っ取って記帳されることになります。
そして一定期間の損益の状況が解る損益計算書と一定時点の財政状態が解る貸借対照表を作成しなければなりません。その目的は外部報告です。経理(記帳)は法律業務ということになります。ル-ルからはずれた処理をしていれば罰則があります。
法律違反です。所得税法違反、法人税法違反、消費税法違反、証券取引法違反、会社法違反、商法違反などです。
自分で忘れないように、わかりやすいようにして書いた自身にとって「必要な記帳」。
簿記や税務・商法をはじめとする専門知識を用いて作成した、何がどう書いてあるのかややこしくわかりにくい「義務としての記帳」その上で作成された、外部報告書としての決算書。
どちらが大切で、どちらに頼るかといえば、大半の人は前者の「必要な記帳」のほうですよね。
後者の記帳・決算書は、ややかしい⇒わかりにくい⇒読めない⇒見るのが苦手 となる。
この連想と専門知識の欠如から、大鉈(おおなた)振りかざせば、「税務署に対してだけに、つける帳簿はメンドクサイ」という感覚に陥るのではないでしょうか。
しかし、「義務としての記帳」を基にして作成される外部報告書だから、経営に役立たないということではありません。大いに役立ちます。
むしろ、我流でつくられた「必要な記帳」より、はるかに真相を表しているはずです。
いや、まちがいなく表しています。「義務としての記帳は」、客観性、明瞭性が求めらているからです。
ですが、それは読むためには、知識とコツが必要です。
その知識やコツをぜひとも学んでください。
お付き合いのある税理士先生・会計事務所に教えてもらってください。
そうすれば、「帳簿なんてメンドクサイ」という感覚を全て払拭することはできなくとも、業績数字を見ることが少しは楽しく、そして、待ち遠しくなるはずですから。
昔から言うじゃないですか、「読み」「書き」「そろばん」って。
商人としての「読み」「書き」「そろばん」の3拍子をさらに磨いていきましょうよ。 |